正しいってなんだろう - ぼくの名前はズッキーニ 観劇感想
辰巳雄大主演
「ぼくの名前はズッキーニ」
大阪公演観劇してきました。
情報解禁され、6歳の子どもを演じると知った時点で、新しい辰巳くんのお芝居に出会える!とワクワクしました。
そしてそのワクワクは一切裏切られず、期待を超えるものでした。
ストーリーとしては、児童養護施設「みんなのいえ」に入ることになってしまった主人公ズッキーニ、そこで色んな境遇の仲間や大人に出会って…というもので、
これはもう人によってそれぞれ色んな別のもの受け取る作品だったんだろうな、という感じなんだけど、
私としては、はっきりと何かを「受け取った」というより、「演劇」に魅せられ、その結果色々考えた作品だったな、という印象でした。
私、基本的に舞台でも映像でもそうだけど、子役にめっぽう弱いので、
あの子どもたちの役を本当の子どもが演じていたら、
多分もう涙でグズグズでどうしようもなくなっていただろうなーって思うんですけど笑、
今回それを全て大人が演じていたことで、
もちろんみんな本当に子どもに見えて、すごいなーって感動もあったんですけど、
なんか、本物の子どもじゃないことによって、色んなセリフが、結構鋭利なナイフとなってグサグサ刺さってきた感覚がありました。
だからもう、グズグズえんえん泣くよりも、言葉の意味に目を見張るシーンが多かったような気がします。
子役の子がやっていればただそれぞれの子どもに感情移入して、可哀想とか、そういう同情の心に支配されたと思いますが、
今回の作品は、子どもの心や言葉にハッとさせられることもあれば、大人の立場、言い分や言い訳、そんなところにも思いを馳せました。
それは演じているのも大人だし、もちろん観ている私も大人だからなんでしょうけど。
カミーユのことを愛せないマーゴット叔母さんが、私は割と理解出来るような気がした。
とは言えカミーユ自身に罪は無いので可哀想だと思うし、愛せないことに共感出来ても、だからと言ってあそこまでの罵詈雑言を浴びせたり、ろうそくを頭に垂らすような虐待をして良い理由には絶対ならないけれども…でも、マーゴット叔母さんは劇中で「魔女」と呼ばれ、「悪」として扱われるけど、私はマーゴット叔母さんも可哀想だと思ったし、カミーユとは離れるべきだったので一旦はやっつけられてしまって、それはそれで仕方なかったけれど、あの先に、マーゴット叔母さんのことも救ってくれる誰かがいたらいいなぁと思う。
マーゴット叔母さんだってそんな悪になりたくてなったんじゃないし、子どもに恵まれなかったこと、それを姉(カミーユ母)に蔑まれたこと、それはマーゴット叔母さんがあぁなってしまった大きな要因だし、そんな姉があんな姿の消し方(劇中では死んだことにまではなってないので)して、その娘の面倒を見なくてはならなくなった時、人は誰しもカミーユをただただ大きな愛で包んであげられるほど大人として出来ているわけではない気がする、と思いました。
アメッドに関しても、子ども目線で見れば、見た目から何から変わってしまったパパが迎えに来たのも、わけわかんない人たちと一緒に暮らすことを強いられそうになってるのも、受け入れられないのはとてもよくわかるけど、なんの罪を犯したのかわからないけど刑期を終えて出所して来たパパが、逃げてしまったママとは違ってきちんと迎えに来てくれたわけだし、ちゃんと改心しているかも知れないし、うまくいけば良いなぁって思う。
他の子どもたちの親に関しては、子どもたちが施設に居る理由としての事実が述べられたのみで、大人側の言葉が無かったので、大人の味方は今のところ出来ないし、なんとも言えないですけどね。
ただ、例えばロージー先生の「人ってはみ出るのよ。複雑な生き物なの。長く生きれば生きるほど複雑化は進む。だって社会が複雑極まりないんだもの」とか、
「した方がいい我慢と、しないでいい我慢があるのよ。しないでいい我慢は、しないでいいんだからね」とか、
レイモンの「正しいって、なんだろう」とか、
これって、子どもの疑問でもあるけど、大人の悩みでもあるんですよね。
ズッキーニの「子どもは大人に嫌われたら生きていけない」にはドキっとしたけど、それに返すカミーユの「じゃあ大人は誰に嫌われたら生きていけないのかしら」っていうのも。
ベアトリスの「神様ってのは何か別のことに気を取られてるか、耳が悪いか心が無いかのどれかだと思う」っていうのも。
子どもには疑問で、大人には悩み。
なんかそういう言葉がグサグサ刺さって来て、痛かったです。
「みんなのいえ」の子どもたちがそこに入る原因を作った大人たちも、何かしらに苦しめられてそういう状況になってるわけで、だからってして良いことと悪いことがあるのだから正当化するつもりは全く無いけど、なんか、大人にも愛は必要なんだよなぁって思いました…。
まぁ愛だけが世界を救うとも私は思ってないけど…。(これはこの作品云々じゃなく私の思想として)
ただ、ここにいる子どもたちは多分みんな大人(親)への愛でいっぱいだったのに、その愛では大人たちを救えなかったからこういう状況になってしまってるんだよなぁってのは現実で、しかも、どの子も弱冠6歳にして、意識はしてなかったとしても潜在的にそれに気づいてしまっているんだろうなぁっていうのはとても辛いし悲しかったですね。
それはやっぱり大人の責任なのだと思うし。
だから何か、子どもたちが可哀想で救ってあげたいっていう感情ももちろんあるけど、それだけじゃなくて、大人に対しても色々考えたし救ってあげたいなって思いました。
それは、何となく、演じているのが大人だったからなのかなぁって私は思ってる。
これがドラマとか、実写の映像作品なら、恐らく子どもは子どもが演じるので、ただただ子どもに同情するし助けてあげたい!って気持ちに支配されてた気がするんですよね。
演劇って、舞台って面白いなぁ、って、思いました。
あと、とにかく全体を通して思ったのは、子どもにとってはどんな親でもパパとママは1人ずつしかいなくて、大人が思っているより、ずっと絶対的な存在なんだなぁってこと。
ズッキーニは、足にケガをして働けなくなってビール漬けになってしまったママに対して恨みつらみは一切無くて、ママのビールの缶が空っぽになったら交換してあげるのがズッキーニ的には自分の役目で、ハタから見ればどう考えてもアル中なので、こっちから進んでビール与え続けてどうするのよ~って思うけど、それはズッキーニにとってはママに対する最大の愛で、悪いのはママでは無くて「空の真っ黒いおねしょ雲」で、だからママのために「お空を殺す」ことを心に誓っていたし、ママには「ママは悪くないよ」って言ってあげたいと思ってる。
割と冒頭の方で、ママがビールを飲む話をレイモンにした時に、「君も飲むの?」って聞かれて、飲んだらママに叩かれるから飲まないと言うと「ママ、叩くの?」って聞かれ、黙ったのも、これ以上言ったらいけない、ママを守らなきゃって思ってるのかなって思ったし。
ママが付けた「ズッキーニ」というあだ名(意味合い的には、おたんこナス的なことらしい)をとても大事にしていて、みんなには本名よりズッキーニと呼んで欲しいと思ってるのもね。
カミーユは、パパがママを川へ突き落して、パパ自身も飛び込んで、一晩中待ってたけど2人とも帰って来なくて。多分心のどこかでわかってるけど、パパとママはずっと川の中にいると言う。会いたくないの?と聞かれれば、どうにもならないこと思ったって仕方ないでしょって言うけど、でも本心は「会いたいに決まってるでしょ」なわけで。
アメッドは、変わってしまったパパに会うまではパパが迎えにきてくれるのを待っていたし、
ベアトリスは「良い子にしてれば迎えに来る」と言ったママを信じ続けて、車の音がするたびに大騒ぎする。
ジュジュブは、パパとママが生きてるか死んでるかすら知らないし知りたくないって言っているけど、「ママより」と書かれた絵葉書をとても大切にしている。
こういう題材の作品に度々描かれることではあるけど、本当に、他人から見たらとんでもない親でも、子どもにとっては他にはいない絶対的な存在なんだなぁ、と。
改めて感じました。
ただその中で、結局1度もパパやママに「会いたい」と言わなかったシモンが一番私の心を掴んでいました。
それが本心(会いたくない)なのか、それとも素直になれない(言っても仕方ない)だけなのか、シモンの性格的にどちらも有り得るからわからないんだけど。
「みんなのいえ」にいる子どもは、みんなどこか子どもにしては色々理解し過ぎているところがあったけど、
それがシモンは特に飛び抜けていて、それが見ていてとても辛くて悲しくて愛しくて抱き締めてあげたかったです。
多分私は一番シモンのシーンで泣いてた…と思う。
「期待されたこと無いから期待される嬉しさがわからない」と言ったシモン、アメッドに「生きてても死んでても、誰も相手にするもんか」と言われ怒りに震えたシモン、出てゆくズッキーニに冷たくし、素直に言えって言われて「めちゃくちゃ羨ましい」と言ったシモン、自分が養子を探す側だったら絶対自分のことは選ばないと言うシモン…パッと思い出せるだけでも相当泣かされてる…。
そして最後、レイモンのところに行くことやカミーユも一緒なことが嬉しくて、でもシモンやみんなと別れるという現実に気づいてやっぱりイヤだと言い出した、ワガママなズッキーニ(6歳だからそれで良いんだけど)に対して、壁にズッキーニの身長の印をつけてやり、この6歳のズッキーニとは一生親友だと言ったシモンが、もう本当に愛しくて…。
別にひねくれているわけでも擦れてるわけでもない。本人はそう言うけどそれは違う。ただ、生きる辛さを知るのが早すぎて、達観しているというか、諦観してしまっているだけで。
自分を守るために、強いフリをしているだけなんだろうなって。
よくよく考えると、シモンは自分の両親は死んだと言っているけど、他の子に関しては、両親共に死んでしまっているのって、後から来たカミーユだけで、みんな少なくともどちらかは、どこかで生きているんですよね。ズッキーニも含めて。カミーユも、本人は、川に入ってまだ見つかってないという言い方をしているし、一応肉親として叔母さんがいる。
ジュジュブは曖昧だけど、でも施設に入った後にママから絵葉書が来たこと考えると…って感じだし。
そういう意味で、家族が迎えに来ることが絶対的に不可能なのって、シモンだけだったのかな、って思った。現実的に他の子の親が来る可能性があるかどうかは別として。
そういうのも、ああいうシモンの性格を作った理由の1つかなぁって思う。
施設のことを「ムショ」だったり「底辺」だったり「掃きだめ」だったりって口にしているシモンが、本当は誰よりも里親が見つかることにしか施設を離れる可能性を見出せないはずのシモンが、自分が養子に行くことは年齢的にも性格的にも無理だと思ってるシモンが、ズッキーニとカミーユを見送ることになったのが、私はとても辛かったです。
そういう意味で、私は実はあの結末すっごく悲しいなって思ってて、ズッキーニからいっぱい話を聞いてシモンが大親友だってことは知ってたはずのレイモンがズッキーニを引き取るって決めた時、シモンとの関係に関してはどういう気持ちだったのだろう、とか、まぁでもシモンも養子になる方が絶対良いに決まってる的な考えだったしレイモン的にもそうなのかなって思ったり、でもそこで、カミーユも一緒に連れていくことは、ズッキーニ的には良くてもシモン的には尚更ツラい状況になるわけで…。
なんか、ズッキーニとシモンが「引き離されてしまう」っていう構図に映っちゃったんですよね。私の目には。
この、最終的に引き取られていくという結末により、ズッキーニは、「暖かいことも、そうじゃないことも、心に書き加えていく」ということを学び、1つ成長したし、主役はズッキーニなのだから、それで良かったのかも知れないけど…。
ただでさえ物事を斜に構えて見てしまうシモンが、この出来事を経て、余計に全てを諦めてしまわないかとても心配になりました。
もちろんレイモンは悪くないし、ただでさえ既に6歳の実の子がいて、しかも男手一つで育てているところに、子どもを2人引き取るなんて並々ならぬ覚悟だろうし。
だからそれも立派だなぁ、素敵だなぁって思うけど…どうしてもシモンが気がかりで。
でも、もしかしたらそういう人のためにあのラストシーンがあったのかな、とも思ってて。
大人になったシモンが、「みんなのいえ」に里親になりに来るシーン。
ズッキーニとの別れがあった後、シモンがどういう人生を送ったか、それは想像するしかないけれど、誰よりも大人を信頼していなかったシモンが、「みんなのいえ」にいる子どもの気持ちが分かるシモンが、里親になりに来たってことは、ズッキーニたちを連れて行ってしまったレイモンのことをきっと恨んではいないだろうし、自分も、親になれる大人になったって思える人生を歩めたのかな、って。
だからあのシーンはとても重要だったなぁ、って思いました。
ちょっと待ってシモンについて予定より語り過ぎたわ。笑
いや、そのくらい私はシモンに感情移入したし、なんかとても好きでした。
私は親の愛に飢えていたなんて思っていないけど、子どもの頃の私は、どこか他の子に比べて冷めていたり、シモンに似てるところがあった気がするからかも知れません。
(親にとっては可愛くない子どもだっただろうなぁ。笑)
ズッキーニとカミーユも、レイモンに引き取られて、はいハッピーエンドってわけには多分いかなくて、
きっとこれからも自分の身に起こった過去のことで悩み苦しむ日は来るし(特にズッキーニは大人になればなるほど苦しむ可能性がある)、
でもレイモンなら愛情いっぱいに育ててくれるだろうなぁってのはもちろん思うから、「家族」の存在が2人の心を埋めてくれたら良いなぁって思う。
他の子どもたちに関しては、更に全然描かれてないのでわからないけど、特にベアトリスの「ママへの叫び」は劇中も本当に悲痛で、
本編が終わったあと、影アナで「ママ、明日は来てくれるかなぁ」っていうの結構辛かったんだけど、大千穐楽後の影アナは、
「今日で終わりかぁ。私のママは一体どこにいるの~~~!」
だったので、それ聞いて、だいぶ泣きました。もう規制退場始まってるのに。笑
なんかね、なんか、もう、みんな、幸せになって欲しいなぁって、本当に思いました。
「みんなのいえ」の子たちも、それを取り巻く大人たちも。マーゴット叔母さんも。存在しか出てこない、子どもたちの親も。みんなみんな。
子どもを捨てて平然と暮らしてるとかじゃなくて、どんな形かはわからないけど、ちゃんと心が救われて、幸せになったら良いなぁって。
そんなストーリーでした。
もうとにかく、子どもを演じるキャストさんみんなすごかったですが、
そしてストーリー的に私はシモンに夢中ではありましたが笑、
辰巳くんのお芝居本当にすごかったです。
冒頭、無音でこちらに背を向けて立っている辰巳くんは、私には34歳の辰巳くんでした。
辰巳くんが、明転した瞬間からズッキーニになっていたのなら汲み取れなくて申し訳ないけど笑、なんか私にはあの最初の一瞬、ほんの一瞬なんだけど、その一瞬は、辰巳雄大として、今から始まるステージの空間を眺めているように見えました。
でもそれが、パッと動き出して絵を描き始めて、絵に夢中になって、ビールの缶を描いているところでレイモンに「缶?」と聞かれて「ん?」と言うところでは完全に声も顔も6歳になってて。
そこからストーリーが終わるまでは、無言の時も背を向けてる時もずっとずっと6歳でした。姿かたちが6歳でした。
劇中で大人になった夢を見るシーンがあって、そこでは大人になって働いているズッキーニが出てくるんだけど、その夢の終わりにベアトリスに「起きて!」って言われて一瞬で6歳に戻って「何!?」って言った時の声と目の変わりようには感心しました。
まぁだからこそ、6歳演じてる辰巳くんは基本的にいつもよりちょっと声高いんだけど、レイモンに連れられてお出かけして、ヴィクトルとカミーユと3人で歌ってハモるところで結構低い声出したのちょっとドキドキしましたよね。笑
あとね、まぁ基本的に完全に6歳だったから、全体的に可愛かったんだけど、シモンと一緒に施設の事務所?的なところに忍び込んでカミーユの資料を盗み見しようとするシーン、気が変わってそれを阻止しようとしたことで、さては恋してるな、ってシモンに指摘されたけど恋がわからないと言うズッキーニにシモンが「恋も知らんのか」って言ったのに対して、
「知らんわいな」
って言ったのがね、これもう生で聞かなきゃ伝えられないけど、はちゃめちゃに可愛すぎてですね。ずきゅぅぅぅぅん、でしたね。
シモンは「人は人の不幸話をおかずに白飯を食べる」的なことをズッキーニに言ったらしいけど、私はこの「知らんわいな」だけで白飯10杯はいける気がしたし、「知らんわいな」自体、あと100回は聞きたかった。笑
まぁそんな小ネタはさておき、また辰巳くんのお芝居の凄さに触れてしまったなぁ。
子どもの動きや発言をみんなでかなり研究したとは言ってましたが、黙って立ってるだけで6歳なのは本当に凄かったです。
劇中に、ロージー先生の「どうでもいい話」と言う日替わりアドリブコーナーがあったんだけど、そこで、20日夜の内容は、「辰巳雄大」って言う俳優さんが、カテコで出てくる姿がとてもカッコいいと共演者の間で話題って言う話だったんだけど、普通なら笑ってしまうか照れてしまいそうなその話も、普通にキョトンと可愛い顔で聞いてる辰巳くん、と言うかズッキーニ、流石でした。
ちなみに、私は20日の昼が初見で、本当にカテコで出てくる辰巳くんめちゃくちゃカッコよくて、ズッキーニが少し抜けて颯爽と出てくる姿が最高だったから、ロージー先生の話、わかるぅぅぅ〜!って思ってたんだけど、その話が出た20日夜は、あえてかなりカッコつけて出てきて、で、大千穐楽の公演はまたカッコつけてるのもあり、おそらく色々込み上げるものもありって感じだったので、あの自然にめちゃくちゃカッコいい辰巳くんが1回しか見れなかったのはちょっと残念でした。笑
あとこの作品は演出もとても面白かった。
最初は壁も床も何も描かれていない黒板で、それ以外、シンプルな椅子というか箱以外はセットも何も無くて、その黒板に劇中にどんどんキャストさんたちがチョークで絵を描き加えていって、最後には全体が埋めつくされている。
演出家のノゾエさんが過去にも使っている手法らしいのですが、私は初めて観たので、面白かったし素敵でした。
ただ描いてるだけじゃなくて、それがその場だけじゃなく後々意味を持ったり、だいぶ時間が経ってから描き加えられたり、ある意味伏線的な働きをすることもあって、色んなことが起こってとても楽しかったです。
ズッキーニが描いたジェットコースター、センスあったなぁ。
最後、ズッキーニとカミーユが出ていってしまうことが嬉しいけど寂しいロージー先生が、絵を1つ1つ四角で囲って、黒板いっぱいの絵が、ロージー先生のお部屋に飾られてる思い出になったあの演出は泣いてしまいました。
あと子どもならではの演出もいっぱいあってよく出来てましたね。
黒板で言えば、字を書くときに何故か点が2つで良いのに3つあったり向きが逆だったり、あるある〜!って感じだったし、
ズッキーニが、レイモンに子どもがいると知って「ねぇ、にょうぼう(女房)は!?にょうぼうは、どんな人??」って聞いたみたいな、使い慣れない言葉を大人ぶって使いたがったり、
なんで急にそんな話飛ぶの!?って突然のこと言い出したり、
あぁ、子どもってそうだよなぁ、って、思うポイントがたくさんありました。
あと、音楽も。
歌を上手く歌おうとしない、子どもなんだから音程外れても気にしないで思いっきり歌う…ってキャストさんたち言ってたけど(ピーチケだったかゲネプロ会見だったか…)、
なんか本当に、正直、例えばミュージカルとかと呼べるような綺麗なハーモニーにはなってない部分がたくさんで、みんな思い思いに歌ってまーすって感じだったんだけど、
それが違和感にならないというか、音がハマってなさそうなのがあんまり気にならない絶妙な音程の音楽の作り方だったように思うんですよね。
多分なんですけど。
もっとシンプルでわかりやすいメロディーの曲なら、みんな上手く歌えちゃうか、わざとらしくハズしてる様にしか聴こえないってなってた気がするんだけど、
そこが、敢えて(かどうかわからないけど)絶妙な音程の曲ばっかりだったので、みんなちょっとずつズレてる感じがするけど、子どもらしさも感じられつつ、嫌な感じがしない作り方だったように私は感じました。
なんか、そういう、うん、とっても、面白い作品でした。
心に残る作品だった。
色んなこと考えたし、演劇的にもとても面白かったし。
また素敵な出会いをしてしまったなぁ。
今回、東京も観に行く予定でチケットしっかり取ってたのに、
緊急事態宣言延長と、それに伴う諸々の事情により、ギリギリで断念する羽目になって、
自分も悲しかったし、2公演も空席を作ったことが本当に申し訳なくてつらかったのだけど、
まぁその辛さと申し訳なさは消えないけど、
大阪まで来てくれて、出会えて良かったし、無事最後まで完走できて本当に良かったなって思います。
そしてカテコでは、相変わらず、来られなかった人、そして来た人たちの気持ちもたくさん気遣ってくれて、もっとたくさんの人に届けられる状況じゃなかったことが悔しいと本音もチラリと覗かせてくれ、何も気にせず楽しめるようになった時に、また帰ってきましょう、と言ってくれました。
私も、もっとこの作品がたくさんの人に届くと良いなぁって思うし、私もまた会いたいなぁって思います。
思えば、私、個人的には、辰巳くんの単独主演の舞台の最後を直接見届けたの初めてだったんだよなぁ。
去年の悔しさがあったから、とても感慨深かったです。
(しかも、大千穐楽の翌日には去年のリベンジも発表されたし!)
あーまた、辰巳くんのお芝居に魅せられてしまったなぁ。
しかもこの次は福ちゃんとの2人芝居のミュージカル、その次はスマホの加賀谷だよ!振り幅!笑
今年も辰巳くんは私をたくさん楽しませてくれそうです。わくわくしますね。
★私的観劇公演★
2021年3月20日 COOL JAPAN PARK OSAKA TTホール 昼・夜公演
3月21日 COOL JAPAN PARK OSAKA TTホール 昼公演(大千穐楽)